京都村上開新堂の歴史

村上家は奈良町時代より京都に移り、宮中に奉仕します。明治天皇、遷都の際、光寿(清太郎の父)は引き続き宮内省に奉仕しました。明治21年、常宮御降誕に付、高輪御殿引き払いに際し同時に御用済みとなります。(清太郎とは、京都村上開新堂の初代)


(京都村上開新堂の初代)清太郎は、明治4年に皇居内に生まれ、後に伯父の村上光保(明治3年、宮内庁大膳職として、フランス人より横浜の外国人居留地にて洋菓子技術を習得。明治7年、現在の東京千代田区に村上開新堂を創業)に精洋菓子の製造を教わります。村上家の発祥の地である京都に戻り、明治40年9月15日に寺町二条、現在の地に西洋菓子舗として開業しました。明治42年から45年まで各種博覧会の審査員に挙げられ、大正3年には東京大正博覧会において金杯を受けました。また、昭和の御大典には宮内省の御用を賜ります。


大正後期から昭和初期には、大丸呉服店(現・大丸松坂屋)内の食堂の喫茶を任され、各種学校や自治会の菓子の注文も多く、当時の代表銘菓、松の翁(朝鮮の松の実を使った菓子)とともに戦前の京都村上開新堂が最も栄えた時代でもありました。大正後期には現在も人気で、後に作家の池波正太郎が愛した菓子でも有名な好事福盧が清太郎により作られ、今も当時のまま意匠登録されています。


昭和15年頃には、戦争による砂糖配給制の実施により店は休業する事となりますが、京都村上開新堂は昭和26年に再開し、30年頃より現在のロシアケーキとなる焼き菓子の製造を本格的に開始しました。また、40年代にかけては日持ちの良いバタークリームを使用したバースデーケーキ等が、京都市の来賓用の御土産としても長く使われました。50年代に入り、現在販売している缶入りクッキーの製造・販売を開始し、続いて好事福盧に変わる夏季限定の「オレンジゼリー」を顧客の要望に応え販売。

京都村上開新堂の歴史

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